2009年02月11日

ちょっと休憩

ちょっとアフィリエイトは休憩して、

大好きな小田和正の歌を載せます。

ラベル:音楽 小田和正
posted by よっしー君 at 06:29| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月28日

シンディ・ローパーについて

今日は、シンディ・ローパーの動画を載せたかったんだけど、

いい動画(YouTube)はけっこう

リクエストによる埋め込み無効が多いので、

シンディ・ローパーの事を書きつつ、

歌の所をリンクする事にしました。

歌を聴きたい方は色が変わっている所をクリックして下さい。

興味の無い方は他の所をクリック・・・いや、なんでもないです。


シンディ・ローパー(Cyndi Lauper、本名:シンシア・アン・ステファニー・ローパー・ソーントン(Cynthia Ann Stephanie Lauper Thornton)、1953年6月22日 - ) は、アメリカ合衆国の歌手、女優。

1953年6月22日-ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン地区クイーンズ区において、ユダヤ系の血を引くスイス及びドイツ系アメリカ人の父と、シチリア系アメリカ人の母との間に生まれる。5歳の時、両親が離婚。母親、姉、弟と共にクィーンズ近郊のオゾン・パークへ移住。
デビュー前の下積み時代、ニューヨークの日本料理店でウェイトレスのアルバイトをしていた。日本語は「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」が初めて覚えた言葉である。
1980年代を代表するポップス歌手。
デビュー当初は、古着の様な格好と後にハリウッドメイクと言われるメイクやハリウッドスマイルと呼ばれる上唇をめくり上げ四角く口をあけるユニークな笑顔などでメディアを驚かせた。
様々な曲調を歌いこなす事から「七色の声を持つ歌手」と称される。
デビューから現在まで変わらないパワフルなアーティスト活動や独自のファッションから『永遠のガール』と称されている。
非常に思慮深く感受性が強い人柄で、一時期、急激に有名人になったことの戸惑いといつも注目を浴びることのプレッシャーから孤独感に苛まれ引きこもりがちになり、自身のパーティーでさえ周りに人が集まれば集まるほど孤独を感じホテルの部屋に閉じこもってしまい主役不在のことさえあったという。
親日家で知られる。日本にはたびたび御忍びで訪れ、日本国内を旅行している。もっぱら移動手段は新幹線で、乗り込むとすぐにビールとあたりめを買い込んで一杯やりつつ車窓からの景色を眺めるのが好きだとの事である。
来日公演で阪神タイガースの掛布雅之選手の縦じまのユニフォームを着たことがある。
オノ・ヨーコと親交がある。
社会活動に熱心であり、日本の有名な戦争悲話「かわいそうなぞう」のCDの英語吹き込みを担当した。2008年8月13日発売。「戦争は動物までも不幸にする」というメッセージを社会に向けて発信する。

12歳の時に、ギターの弾き方を学び、作詞を始める。学校では周りになじめず、授業を受けるかわりに、絵を描いたり、歌を歌ったりして過ごす。17歳の時、自分のおかれている環境に嫌気がさし、高校を退学しついに愛犬スパークルと共に家をでる。(後の1968年、転校を繰り返した4校の高校のうち、ニューヨーク州リッチモンドにあるリッチモンド高校より名誉卒業生として認められることになり、卒業式にも出席した。) その間、生活のためウェイトレス、絵のモデル、競馬調教師の助手、空手教室の呼びこみ等様々な職につきながら、アートスクールに通ったり、トロント北部にある森でテントを張り、スケッチをしながら過ごした。カナダを旅行した後、ニューヨークに戻る。

ロングアイランド出身のバンドDoc Westに加入し、バックグラウンドシンガーとして活動するが、後に別のバンドFlyerに加入しリード・シンガーして働く。

1977年、歌い続けることによって喉を酷使してしまい声帯に損傷を受けたために声が出なくなり、1年間音楽活動を休止し、ヴォイス・トレーナー、ケイティ・アゲストラの指導のもと、集中的なヴォーカルトレーニングを受けて、歌声を取り戻す。

1978年、キーボード兼サックス・プレイヤーのジョン・テュリと知り合い、意気投合し、自身のバンドBlue Angelを結成する。

1980年、ポリドール・レコードより、アルバム『Blue Angel』でデビュー。多くの評論家に絶賛されたにもかかわらず、ロカビリーサウンドが理解されなかったり、商業的成功を収められず、バンドはその後すぐに解散。彼女は自己破産を申請し、小売店で働き始め、生活のためにまた歌い始める。

ブルーエンジェル解散後、活動を続けていた頃にマネージメントを手がけていたデビッド・ウルフと知り合い(その後ウルフはローパーの恋人兼マネージャーとなる)、ウルフの紹介を経て、ポートレート・レコードと契約を結ぶ。

ポートレートレーベルのエクゼクティブ・プロデューサー、レニー・ペッツやプロデューサーのリック・チャートフ、後にフーターズを結成する、ロブ・ハイマンザ・フーターズの全面的な協力によって制作されたアルバムで1983年に『シーズ・ソー・アンユージュアル/She's So Unusual』でソロ・デビュー。

1984年、ファースト・シングルの「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」がヒット・チャートに急上昇して第2位に輝き、セカンドシングルの「タイム・アフター・タイム」は全米第1位になり、サードシングルの「シー・バップ」は第3位、「オール・スルー・ザ・ナイト」が第5位とデビューアルバムから4曲連続トップ5入りした初の女性ソロ・アーティストとなった。

第1回MTVミュージック・ビデオ・アワードで最優秀女性歌手賞を受賞し、ローリング・ストーン誌の84年度の最優秀新人賞など数々の賞を総なめに。

映画『グーニーズ』のオリジナル・サウンドトラックに参加し、シングル「グーニーズはグッド・イナフ」も全米第10位のヒットとなった。

プロモーションの為に初来日、フジテレビ系「笑ってる場合ですよ!」に出演。

シングル「タイム・アフター・タイム」はマイルス・デイヴィスらにもカヴァーされるスタンダードとなる。

1985年、5枚目のシングル「マネー・チェンジズ・エヴリシング」は全米第27位になり、第12回アメリカン・ミュージック・アワードでは最優秀女性ポップ・ロック・ヴォーカル賞や最優秀女性ポップ・ロック・ビデオ・アーティスト賞を、グラミー賞では最優秀新人賞と最優秀アルバム・パッケージ賞を受賞。USA For AFRICAの『We Are The World』のレコーディングに参加。とても印象深い熱唱を披露し、音楽監督のクインシー・ジョーンズに「アドリブ入れてもいい?」と尋ね、彼を喜ばせたという有名なエピソードも残している。

デビューしてわずかな時間で80年代を代表するシンガーとなり、パワフルなヴォーカル、独自のファッション性も話題となった。

1986年、2枚目のオリジナル・アルバム『トゥルー・カラーズ/TRUE COLORS』を発表。ファースト・シングル「トゥルー・カラーズ」は全米第1位を2週連続獲得し、セカンド・シングル「チェンジ・オブ・ハート」は第3位に、サード・シングルの「ホワッツ・ゴーイン・オン」は第12位に記録した。

1987年、映画「バイブスの秘法の谷」(en:Vibes)の撮影に入ってから、スランプに陥ってしまい、私生活ではマネージャーでもあり婚約者で共に暮らしていたデヴィット・ウルフと別離。

1988年、旧ソ連で行われた『米ソ・ソングライター・サミット』に参加したことが転機となり、様々な刺激を受けてスランプを抜け出すきっかけとなり活力を取り戻し、ほとんど出来上がっていたニュー・アルバムを白紙に戻して作り直して、1989年、3枚目のオリジナル・アルバム『ア・ナイト・トゥ・リメンバー/A NIGHT TO REMEMBER』を発表。自身初の全曲ラヴ・ソングとなった。

ファーストシングル「涙のオール・ナイト・ドライヴ/ I DROVE ALL NIGHT」は全米第6位を記録した。



僕はシンディ・ローパーは大好きでカラオケでよく歌います。

せっかく作ってはみたものの、

全部聴いてくれるほど暇な人はいないであろう・・・



応援してくれるとうれしいです。

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posted by よっしー君 at 08:47| Comment(4) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月27日

Britain's Got Talent 2008

さて、今年のBritain's Got Talent は

どうだっただろうか。

正直、今年はたいした事なかったと思う。

ずばり、上位3組を挙げてみた。

まず3位だったのは、アンドリュー・ジョンストンである。



2位だったのは、シグニチュアである。
(シグニチャーと訳すべきかな・・・)



で、優勝したのはジョージ・サンプソンである。




2007年の優勝者、ポール・ポッツや

準優勝者のコニー・タルボットのように、

世界的に有名になる事は無いと思う。


応援してくれるとうれしいです。

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posted by よっしー君 at 02:34| Comment(2) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

コニー・タルボット

さて、Britain's Got Talent2007で優勝したのはポール・ポッツであったが、では準優勝だったのは誰かというと、コニー・タルボット(当時6歳、現在7歳)である。
2歳の時から歌の練習を始め、現在の歌唱力を得る。
あの激辛審査員としても知られるプロデューサー、サイモン・コーウェルも彼女の歌唱力を絶賛した。
コニー・タルボットが出場したセミファイナルの瞬間視聴率は51%まで達した。
Youtube内でのView Countではポール・ポッツにも退けをとらない。
現在CD アルバム 『Over the Rainbow』 と、ニュー・バージョン 『Over the Rainbow』が発売中。
CDは、コニーの為にレインボウ・レコード社が設立され、2007年11月26日アルバムが発売されることとなったのである。

まあとにかく1回戦の模様を御覧下さい。



どうでしょうか。
6歳でこの歌唱力はなかなかのものだと思うのですが。

何曲か用意しました。
興味のある方はお聴き下さい。
(興味の無い方は早々にクリックを・・・いや、なんでも無いです)









いかがだったでしょうか。
彼女の今後に期待してます。

応援してくれるとうれしいです。

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posted by よっしー君 at 18:16| Comment(6) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月24日

ポール・ポッツについて

ついにコマーシャルにまで登場するようになったポール・ポッツ。
今日はポール・ポッツについて書いてみる。

ポール・ポッツ

イギリス・ブリストル出身。

幼い頃から家が貧しく顔立ちがあまり恵まれず、それ故に周囲からいじめられ続けていた中、10歳から教会で聖歌隊として歌い始める。1986年(16歳の時)、三大テノールの一人でオペラ歌手のホセ・カレーラスの声と出会い、彼の美しい歌声に魅了されたポッツは、いつか彼のようになり満員のオペラハウスで歌いたいという夢を抱いた。しかし、当時ヨーロッパではオペラ歌手は憧れの職業と見なされていて、歌の実力はもちろんだが容姿も重要視されていた。そのため、ポッツは自分に自信が持てず、プロへの道を一時断念する。

1994年、大学を卒業してスーパーマーケットに就職。その後もアマチュアのオペラ劇団でオペラを学び、ボイストレーニングを続けた。

その後、インターネットのチャットルームで知り合った女性と交際を始め、出会って2年後に結婚。結婚式では妻にオペラの名曲「カヴァティーナ」を捧げたという。

しかし、2003年7月、自転車で出勤中にポッツは交通事故に遭ってしまう。命に別状はなかったが、長期の入院生活を余儀なくされ仕事を失う。退院すると莫大な治療費の請求が来たため、妻の反対も押し切って歌のレッスンを辞め、所属していたアマチュアのオペラ劇団も退団した。 その後、携帯電話のセールスマンとなる。

2007年、妻の後押しもあり、イギリスのオーディション番組「Britain's Got Talent」(America's Got Talentの英国版)へ出場を決意。これで駄目なら歌はきっぱり諦める覚悟で望んだという。 本番で「トゥーランドット」の名曲「誰も寝てはならぬ」を熱唱すると、審査員全員と会場全体を熱狂させ、番組を勝ち続けて見事優勝し、同番組の激辛審査員としても知られるプロデューサー、サイモン・コーウェルに認められ、一夜にして携帯電話ショップの店員から世界的オペラ歌手となる。その番組の模様はYouTubeを通じて、世界中に配信され、感銘を呼んだ。日本でも2007年夏頃から、容姿から想像し難い美声で番組を勝ち抜く姿がネット上の動画サイトなどで話題となる。2008年4月29日、世界ツアーで来日しコンサートを開き、二日間の公演は満席となった。

デビュー作はアルバム「ワン・チャンス」(BMG JAPAN)。本作は2007年7月23日付全英初登場1位。3週間連続で1位を記録する。米国では同年11月24日付ビルボード総合チャートで、前週115位から23位へ急上昇。全世界で300万枚以上ものセールスを達成した。特異な経歴が受け、世界中で旋風を巻き起こしている。

彼の経歴ドキュメントは2008年6月5日に日本のテレビ番組『奇跡体験!アンビリバボー』でも放送された。

また、ポッツの半生を描いたハリウッド映画も米パラマウント・ピクチャーズのもとで制作されることが決定されている。この映画は上記の音楽プロデューサーのサイモン・コーウェルが、初めて映画製作を行うことになった。また、ポッツ役はプロ・アマを問わず、オーディションで決めるという。映画のタイトルはデビューアルバムと同じ「ワン・チャンス」。脚本は 「最高の人生の見つけ方」で脚本を担当したジャスティン・ザッカムが執筆する。

セカンドアルバムであるクリスマスアルバムを2008年10月にリリースする予定。


まあとにかく歌を聴いてみよう



で、この後どうなったかというと



見事優勝した。
まあ、当然の結果だと思った。
で、それから



一躍、世界的オペラ歌手になった。
僕は去年から彼の大ファンだ。
頑張ってほしい。
今度日本でコンサートをやるなら是非行ってみようと思う。
ラベル:音楽
posted by よっしー君 at 01:31| Comment(7) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月08日

清水ミチコのものまね

今日は清水ミチコについて書きます。


清水 ミチコ(本名:坂田 美智子、旧姓:清水、1960年1月27日 - )は、モノマネを得意とする日本のタレント、女優である。岐阜県高山市出身。高山西高等学校、文教大学女子短期大学部家政科卒業。ジャムハウス所属。血液型B型。

モノマネのスペシャリストとして知られ、多数のレパートリーを持つ。特にピアノの弾き語りによるモノマネ(声・歌のみならず、ピアノのタッチまでも真似るというハイレベルなもの)で知られる他に、様々な芸能人の「顔まね」や、ふん装をして一般人に溶けこむ「溶けこみ」などがある。モノマネを集めたCDや、顔まねや溶け込みを載せた書籍も発売している。

バラエティ番組以外にも、ドラマ・映画にも多数出演している。

中学家庭科の教員免許を取得している。

少女時代はネクラなお笑いマニアであり、一部の友達にだけ披露して笑いをとっていたが、授業中に「走れメロス」を感情を込めて朗読したことで一躍人気者となる。モノマネは小学校のころからやっていたが、特に中学、高校から矢野顕子、桃井かおり、松任谷由実、森山良子などのモノマネをしていた。

短大に入りラジオ番組にネタを投稿するようになる。そのネタがラジオで読まれることにより自信をつける。アルバイトで働いていたデリカテッセンの主人の知り合いが放送作家を募集していたことがきっかけで、1983年にラジオ番組『クニ河内のラジオギャグシャッフル』の放送作家兼出演者となる(河内を通じて、CMソングやナレーションの仕事も始めている)。

1986年にはライブを行うようになり、独特のキャラクターと個性的な芸が認められ(永六輔に認められたと本人は言っている)、1987年にフジテレビの新人発掘番組『冗談画報』で本格デビュー。その際にテレビ関係者の目に留まり、1987年に「笑っていいとも!」に出演。全国区の人気に。同年、フリーディレクターの坂田幸臣と結婚。1989年、長女を出産。

以前、松任谷由実から「山田邦子の(自分の)モノマネには(自分に対しての)愛情を感じるが、清水のモノマネには(自分に対しての)毒を感じるんですよね」と言われた事がある。

数々の天然エピソードを持っており(カラスを肩に乗せて自転車を漕いでいた等)、共演したダウンタウンにも「みっちゃんは天然だからねー」と感心(呆れ?)されている。

実際に会ったファンから「テレビで見るよりきれいですね。ブスキャラでやっていくことないですよ」と言われたことがある。「ブスキャラじゃありません!」と否定したという。


今日も動画を用意しました。








最後のはかなり緊張していて本気が出せなかった気がするが。
ラベル:
posted by よっしー君 at 17:41| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月05日

小田和正について

今度小田和正のコンサートに行きます。

小田和正について調べてみました。


小田 和正(1947年9月20日 - )は、日本のニューミュージックを代表するシンガー、シンガーソングライター。元オフコースのボーカル兼リーダー。株式会社ファー・イースト・クラブ(FAR EAST CLUB INC.)代表取締役社長。東京都渋谷区に在住。身長172cm。血液型はA型。

将来、建築家を目指していた小田は高校時代から同級生らと続けてきたフォークグループ「ジ・オフ・コース」のアマチュア音楽活動の有終の美を飾るべく、自信をもって臨んだ「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」で不本意にも2位になったことで、「オフコース」として、プロの道を歩み出すことになる。

数年間は売れない時代が続いたが、やがて、1970年代から1980年代にかけて、次々とヒット曲を生み出し、時代を代表する人気グループとなった。オフコース時代のシングルのA面のほとんどは小田の曲であり、そのシンプルで、ストレートに愛を歌う歌詞とハイトーンの澄んだボーカルはオフコースの大きな特色であった。オフコース時代のヒット曲には「さよなら」「Yes-No」「君が、嘘を、ついた」などがある。

オフコース時代から、ソロ活動は始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後に活動を本格化させる。特に、1991年のトレンディドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌『ラブ・ストーリーは突然に』が大ヒットし、オフコース時代にも達成できなかった「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルのミリオンセラー」の達成を一挙に成し遂げ、それ以降の曲もヒットを重ねている。

CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになった。また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ。また、音楽以外の分野では映画やドキュメンタリーの制作なども行った。

神奈川県横浜市金沢区出身。
金沢文庫すずらん通り商店街にある小田薬局で次男として育つ。横須賀中央のバイオリン教室に通っていた。実父はすずらん通り商店街の基礎を築き藍綬褒章受賞。
関東学院六浦小学校 − 横浜市立八景小学校 − 聖光学院中学校・高等学校 - 東北大学工学部建築学科 - 早稲田大学大学院理工学研究科(建築学専攻、池原義郎研究室)修士課程修了。
建築家の藤森照信は学部時代からの友人。

1969年 11月2日 第3回「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」(LMC)全国グランプリ大会(新宿厚生年金会館大ホール)に東北代表として出場し赤い鳥に次いで、第2位となり、最優秀歌唱賞を受賞する。
古今亭志ん生のファンである。


ソロ活動の成功

オフコース在籍中の1985年に、松任谷由実・財津和夫との共作でリリースしたシングル『今だから』がヒット。翌1986年にシングル『1985』でソロデビュー。1989年、オフコース解散と同時にソロ活動を本格化させる。
1991年、フジテレビ月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲『ラブ・ストーリーは突然に』が、ドラマと見事なコラボレーションを成し、ドラマ・主題歌共に大ヒット。オフコース時代に叶わなかった、「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルミリオンセラー突破」を一挙に成し遂げた。
その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、『伝えたいことがあるんだ』、『キラキラ』、『まっ白』などのヒット曲を生み出している。
またオフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したアルバム『LOOKING BACK』『LOOKING BACK 2』や『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなり、改めて小田サウンドの力を見せつけた。
2005年にはオリジナルアルバム『そうかな』、2007年にはシングル『こころ』で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。


声について

女声域までの高音をファルセットを使わず素直に出せる澄んだ歌声が大きな特徴で、天性のものと言うほかない。オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばだったという。少年のような歌声に、変声期を経ずに成長したのではとの見方もあり、自身も音楽評論家の小貫信昭のインタービュー本『たしかなこと』で「変声期があった記憶がないので、声変わりしていないと思う」との旨を述べているが、2005年のコンサート中のMCにて「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があった様子を伺わせた(発声が生来しっかりしていたため、声変わりしても元の音域で話せたせいで、声変わりに気づかなかっただけという可能性が指摘されている)。話す声はわりあい低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいと感じる人が多く、「どうしたら高い声で歌えるのか」という質問をよくされるが、それに対しては「僕はただシャウトしているだけ」と答えている。東北大学時代は混声合唱団でテノールを担当していた。

混声合唱団では、男性高音パートを受け持つテノールのパート・リーダーを務めた。声楽の褒め言葉として、「テノールのようなアルト」、「アルトのようなテノール」という表現があるが、小田和正の声はまさに後者にあたる。因みにアルトは女声の低音パートを受け持つ。 小田和正は「声変わり」していないという俗説があるが、声変わりした男性の声は女声より確実に1オクターブ低くなる。ウィーン少年合唱団の声は女声と同じ音域であるが小田和正の話声は女声より1オクターブ低く声変わり後の男声である。ただ、小田和正の歌声の発声領域は、「ヘ音記号」楽譜の下のソ音(G)付近から「ト音記号」楽譜の上のレ音(D)付近までである。つまり、小田和正は女性の声域のさらに下に1オクターブ追加された声域ということになる。男声として高域の伸びと声の質が小田和正の天性の魅力となっている。その発声は所謂、音の揺らぎ-ビブラート-の少ないフラットな澄んだ声であることとと、音程の正しさも小田和正の高域の声の美しい印象を高めている。


コンサート楽しみです。

リンク疲れたなあ。

君が、嘘を、ついた と、まっ白 無かったし・・・
ラベル:音楽
posted by よっしー君 at 09:45| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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